تسجيل الدخول物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。
朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」 「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」 「通行証は、出ているはずです」 「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」 「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」
ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」 「ベルナへの荷物は?」 「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」 「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」 「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」 「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運び方を誤ると品質が落ちる」 「品質を維持できる量を、小分けにして運ぶ。一度に届けられる量は減るが、届けないよりいい」 「マリオに確認します。彼なら迂回路の状態を把握しているかもしれない」 「お願いします」 ゴードンが外に出た。 エリナは一人、地図を見続けた。 これが、ダリウスが言っていた物流への介入だ。 直接的な妨害ではない。「通行証の書類確認」という名目を使っている。合法の形を取りながら、実質的に荷物を止める。 これには、正面から反論しにくい。 書類の不備を主張されれば、こちらは書類を整える必要がある。整えても、次の不備を指摘される可能性がある。いたちごっこになる。 正面から戦うのではなく、別の道を作る方が早い。 エリナは紙を取り出して、考えを書き始めた。マリオが戻ってきたのは、一時間後だった。
「迂回路、確認してきた。確かに道は悪い。でも、歩いて通れないことはない。ロバなら、慎重に行けば大丈夫だと思う」 「実際に通ったことは?」 「子どもの頃、遊びで一度だけ。でも荷物を持ってはいない」 「今日中に、試してみる必要がある」 「俺が行く」 「一人ではなく、グレンさんに声をかけて。道の状態と、荷物を運べるかどうかを確認してきてほしい」 「わかった」 マリオが出ていった。 次に、エリナはジルカに手紙を書いた。 キーシュは南側の町で、今のところ影響はない。だが同じことがいつ起きてもおかしくない。キーシュから先の、海沿いの別ルートがないかを探してほしいと書いた。 さらに、シェナへの手紙も書いた。 トレネは街道沿いだ。もし荷物が止まった場合、シェナ自身が近隣で採取できる薬草の種類と量を確認しておいてほしいと書いた。薬草薬については、材料さえあれば現地で作れる手順を同封した。 フィオナへの緊急の手紙も書いた。 物流介入が始まったこと。通行証の書類不備という名目で橋が使えないこと。早急に、王宮側の誰かに確認できないかということ。 四通の手紙を書き終えて、エリナは一度だけ目を閉じた。 三十秒だけ、何も考えない時間を作った。 前世のエンジニア時代、障害が起きた時に教わった習慣だ。パニックのまま動くより、三十秒止まって整理してから動く方が、結果的に速い。 三十秒後、目を開けた。 次にやることは、決まっている。昼過ぎ、マリオとグレンが戻ってきた。
「通れる。ロバなら問題ない。ただ、石鹸は一頭あたり半分の量にした方がいい。道が狭くて、荷が揺れる」 「時間は?」 「橋を通るより一時間半多くかかる」 「許容範囲です。今日の午後、試験的にヴァロウへ荷物を届けてみましょう。成功すれば、当面の代替ルートになります」 「俺が行く」 「グレンさんが?」 「荷物の重さには慣れてる。それに、道を知ってる。前に猟師の友人から聞いたことがある」 「助かります。マリオも一緒に行ってもらえますか」 「もちろん!」 二人が準備に取り掛かった。 エリナはルナを呼んだ。 「今日、グレンさんとマリオがヴァロウに荷物を届けてくれる。送り出す前に、薬草薬を一度確認してほしい。道が悪いから、瓶の固定を通常より厳重にする必要がある」 「どのくらい揺れる?」 「マリオが言うには、かなり揺れる。クッション代わりに、乾燥薬草を詰め物として使えないか考えてほしい」 「できる」 「お願いします」 ルナがすぐに動き出した。その背中を見ながら、エリナは母屋に向かった。セレーナは縫製の仕事をしていた。
「お母さん、少し聞いてもいい」 「どうぞ」 エリナは今日の状況を、簡単に説明した。流通が一時的に止まっていること、迂回路を使うこと、しばらく慌ただしくなること。 セレーナは手を動かしながら聞いていた。 「何か、私にできることはある?」 「縫製を、少し変えてほしいことがある」 「縫製を?」 「荷物を運ぶ袋の強度を上げたい。今の袋では、道が悪い時に縫い目が開く可能性がある。素材と縫い方を変えて、五十個ほど作ってもらえますか」 「素材はどこで手に入れるの」 「ハンスさんの知り合いに、丈夫な麻布を扱っている人がいます。今日中に手配します」 「わかった。いつまでに?」 「三日以内に、できれば」 「やってみる」 「ありがとう」 セレーナが少しだけ顔を上げた。 「エリナ」 「うん」 「顔色あまり良くないけど大丈夫?」 「大丈夫」 「嘘をつかないで」 「……少し疲れてる。でも、動けてる間は動く」 セレーナが手を止めて、立ち上がった。 エリナの頭に、静かに手を置いた。 「少しだけ、ここにいなさい」 「でも——」 「三分でいい」 エリナは言葉を飲み込んだ。 母の手の温度が、頭から肩に伝わってきた。 三分間、エリナは何も考えなかった。 計画でも、対策でも、クロヴェルでもなく、ただ母の手の温度だけを感じた。 三分後、セレーナが手を下ろした。 「行きなさい」 「うん」 「でも、今夜はちゃんと眠ること」 「眠る」 「約束」 「約束」 エリナは母屋を出た。 背筋が、少しだけ楽になっていた。夕方、グレンとマリオが戻ってきた。
「届けた。マグダさんが喜んでた。それと、迂回路の途中で、地元の猟師と話した。週に三回、その道を通るらしい。荷物の小分け輸送を手伝ってもいいと言ってた」 「名前を聞いた?」 「ベルト。年は五十くらい。口数が少ないけど、信頼できそうな目をしてた」 「グレンさんは、どう思いますか」 「悪い男じゃない」グレンが短く言った。
「昔から山を知ってる人間は、嘘をつかない」
「では、報酬を提示して、定期的に手伝ってもらえるか確認してもらえますか。明日でいいので」 「わかった」グレンが頷いた。
マリオが少し疲れた顔をしながら、壁にもたれた。 「なあ、エリナ」 「何?」 「こういう時、腹は立たないのか」 「立つよ」 「立つのか」 「立つ。でも、腹を立てながら対策は考えられない。だから順番をつける」 「順番?」 「まず対策。腹を立てるのは、後でいい」 マリオがしばらくエリナを見た。 「……お前、本当に七歳か」 「もうすぐ八歳になる」 「それも大して変わらん」 グレンが、珍しく小さく笑った。夜になって、フィオナから返事が届いた。
早馬を使ったのだろう。エリナの手紙を出してから半日も経っていない。エリナへ
動いた。予想より早かったけど、想定の範囲内。 通行証の書類確認という名目の停止は、魔法省経由ではなく、地方道路管理局を使っている。これはクロヴェルの直接の管轄ではないけど、影響力を持っている部署。つまり、「クロヴェルがやった」という証拠が残りにくい形を選んでいる。賢い。 アルバ殿下に打診した。殿下は「確認する」と言った。ただし、公式に動くには時間がかかる。今すぐ解決するわけではない。 一つ、使えそうな情報がある。地方道路管理局の局長は、三年前にベルナの商人との取引でトラブルを起こした過去がある。公式には処理されていないが、商人ギルドの一部はそれを知っている。ゴードンさんに確認してほしい。もし使える話なら、交渉の材料になるかもしれない。 あと、迂回路を確保したのは正しい判断。長期戦になるなら、複数のルートを持っておく方がいい。 一つだけ余計なことを言う。今日は無理しすぎないで。あなたが倒れたら、商会が止まる。それが一番まずい。 ――フィオナ――エリナはすぐにゴードンを呼んだ。
「地方道路管理局の局長について、三年前のベルナでの取引トラブルを知っていますか」 ゴードンが少し目を細めた。 「……知っています。私が商人ギルドにいた頃、同僚から聞いた話です」 「詳細は?」 「局長が、ベルナのある商人に便宜を図る代わりに、個人的な報酬を受け取った。商人ギルドが非公式に調査して、事実が確認されたが、局長の後ろ盾が強くて公式処理されなかった」 「後ろ盾というのは」 「当時の魔法省の関係者です」 エリナは一度、深く息を吸った。 「つまり、局長は一度、不正をしている。それを知っている人間がいる。そして、その局長が今、私たちの流通を止めている」 「そうなります」 「その情報を、どう使うかが問題ですね」 「直接、局長を脅すのは悪手です。かえって敵を硬化させる。それに、不正の証拠を使うとなると、こちらも手が汚れる」 「使い方が大事。脅しではなく、選択肢を提示する形なら、相手に逃げ道を残せる」 「逃げ道?」 「局長が、クロヴェルの意向に従って動いているなら、その意向から逃げる口実を与えてやる。『書類の不備が解消された』という形で検問を終わらせることができれば、局長としても体裁が立つ」 「つまり、局長を責めるのではなく、局長が引き下がれる形を作る」 「そうです。フィオナにその方向で動いてもらえるか、確認します」 ゴードンが少し考えてから、言った。 「一つ、付け加えるとすれば」 「何ですか?」 「アルバ殿下が動いてくださるなら、その動きと局長への働きかけのタイミングを合わせる方がいい。両方から同時に圧がかかれば、局長が引き下がりやすくなります」 「タイミングを合わせる、か。フィオナへの手紙に、それも書きます」深夜近くまでかかって、フィオナへの返信と、各方面への連絡を書き終えた。
マリオはすでに眠っていた。ゴードンも帳簿を閉じて宿に戻った。ルナは薬草の整理をしながら、半分眠っているような顔で椅子に座っていた。 「ルナ、今日はもう寝て」 「……うん」ルナが立ち上がった。猫が一匹、足元からついてくる。
「お疲れさま」 ルナが扉の手前で少し止まった。 「エリナ」 「何?」 「……大丈夫?」 エリナは少しだけ、目を細めた。 「大丈夫」 「ほんとに?」 「ほんとに。今日は母に三分もらった。それで持ってる」 ルナが小さく頷いた。 「なら、いい」 ルナが出ていった。 エリナは一人、事務室に残った。 机の上に、今日一日の記録が積まれている。 流通が止まった。迂回路を確保した。猟師のベルトに打診する。局長への間接的な働きかけを検討する。アルバ殿下の動きとタイミングを合わせる。強化した袋を三日で作る。 一日で、動かせるだけのことを動かした。 エリナは窓の外を見た。 ルシェムの夜は、いつも通り静かだった。 星は出ていない。曇り空だ。 橋の向こうで、荷物が足止めされている。 でも、迂回路は通った。 止められた道の隣に、別の道がある。 それで、今日は十分だ。 ランプを吹き消す前に、エリナはレインへの短い手紙を書いた。 『流通が止まった。迂回路を確保した。フィオナとゴードンが動いている。こちらは動ける。』 それだけ書いて、止まった。 もう一行、付け加えた。 『あなたが先日、ここにいてくれてよかったと、今日思った。理由は、うまく言葉にできない。』 書いてから、少しだけ見つめた。 消すかどうか、三秒だけ考えた。 消さなかった。 封をして、ランプを吹き消した。 暗い部屋で、エリナは目を閉じた。 母の手の温度が、まだ少しだけ残っていた。 エリナ・アッシュフォード、七歳。 流通は、止まった。 でも、自分は止まらない。 それだけのことだ。物流への介入が現実になったのは、ダリウスの再訪から十日後のことだった。 朝、ヴァロウのマグダから急ぎの使いが来た。 馬に乗った若い男が、泥だらけの顔で長屋の前に現れた。マグダの息子だと言った。 「母から言付けです。今朝、荷物が届きませんでした。街道の検問が増えていて、商人の馬車が軒並み足止めを食っています」 エリナは表情を変えなかった。 「街道のどのあたりですか」「ルシェムとヴァロウの間の、橋の手前です。王都の役人が来て、通行証の確認をしていると」「通行証は、出ているはずです」「出ているのに、書類の不備があると言われて、通してもらえないと業者の人が」 書類の不備。 エリナは、頭の中でその言葉を一度だけ転がした。 不備の内容を確認しなければ、対処のしようがない。でも、不備の内容が何であれ、今日の荷物は止まっている。 「わかりました。お母様に伝えてください。今日の荷物は遅れます。代替の手段を考えます」「はい」 男が馬を返した。 エリナはゴードンを呼んだ。「予想より早かったですね」 ゴードンが、地図を広げながら言った。 「ルシェムとヴァロウの間の橋は、街道の要所です。ここを押さえれば、北方向への荷物はすべて影響を受ける」「ベルナへの荷物は?」「ベルナは南です。今のところ影響はないはずですが、いつ同じことが起きるかはわかりません」 エリナは地図を見た。 橋の位置、街道の分岐、各町への距離。 ルシェムを中心として、北と南に街道が伸びている。北がヴァロウとトレネ方面、南がベルナとキーシュ方面。 「北側の迂回路は?」「一本あります。ただし、山間の道なので時間が倍以上かかる。馬車では厳しい道です」「荷物の量を減らして、ロバか人力で運ぶことはできますか」「試みることは可能です。ただ、石鹸は重い。薬草薬は繊細で、運
ダリウス・クロヴェルが再びルシェムに来たのは、作業場の油の痕が発見されてから二週間後のことだった。 今回は、予告があった。 前日の夕方、丁寧な文字で書かれた短い手紙が届いた。 『明日の午前、改めてお話の機会をいただけますか。前回は突然の訪問をお許しください。今回は正式にお時間を頂戴したく。ダリウス・クロヴェル』 エリナはその手紙を三度読んだ。 前回より、文体が少し違う。「正式に」という言葉と、「前回は突然」という謝罪。どちらも、前回にはなかった言葉だ。 「来ていいか聞いてくる前に、来ることを決めてる」 フィオナへの手紙の下書きにそう書いて、それから消した。 余計な観察を文章にしても仕方ない。 返事は短く書いた。 『明日の午前十時、ルシェムの市場近くにある宿の一室をお借りします。そちらにお越しください。アッシュフォード商会 エリナ』 ゴードンに見せると、「場所の選び方が良い」と言われた。 「長屋ではなく、公共の場に近い宿を選んだのは?」「母のいる場所に通すのは、リスクがある。宿なら、第三者の目がある。それが双方にとっての抑止になる」「正解です」 ゴードンが静かに頷いた。 翌朝、エリナはいつもより少しだけ丁寧に身支度をした。 服は、王都に行った時と同じ一張羅だ。古い生地だが、縫い目はセレーナの仕事なので完璧だ。髪を後ろで一つにまとめ、革靴を磨いた。 鏡代わりの水盤に顔を映して、確認した。 七歳の子どもの顔だ。 それは変えようがない。でも、その顔に気圧されない目をしていれば、それで足りる。 宿に着くと、ゴードンが先に来ていた。部屋の隅に椅子を一脚余分に置き、テーブルの上を整えていた。 「フィオナさんから、昨夜遅くに手紙が届きました」 ゴードンが封筒を差し出した。 「ダリウスの件についてですか」「そうだと思います」 エリナ
レインからの返事は、手紙ではなく本人が持ってきた。 手紙を出してから十日後の朝、エリナが作業場で石鹸の型を確認していると、マリオが戸口から顔を出した。 「来てるぞ」「誰が?」「誰がって、一人しかいないだろそういう顔の時」「どういう顔」「なんか、急に背筋が伸びる顔」 エリナは手を止めた。 「何を言っているの」「俺もよくわからん」 マリオがにやにやしながら引っ込んだ。 エリナは道具を置いて、石灰の粉を手ぬぐいで拭いながら外に出た。 長屋の前に、レインが立っていた。 旅装束。革鞄。よく見ると、鞄が前より少し大きくなっている。中身が増えたのだろう。顔は変わらない。無表情で、でもどこか目だけが少し鋭い。 「来た」「来た」 お互いに同じ言葉を言った。 少し間があって、エリナが続けた。 「手紙じゃなくて、本人が来たの」「その方が早い、と判断した」「学院の用件も兼ねて?」「そうだ。ルシェム周辺の衛生改善の実地調査、という名目で外出許可が下りた」「名目、と言った」「名目だけが理由ではないからだ」 エリナは少しだけ、顔の筋肉が緩むのを感じた。 表情には出さなかった。出すつもりもなかった。 でも、来てくれたのは、素直に良かった。 午前中は、エリナがレインを作業場に案内した。 改造を終えたばかりの三部屋を、順番に見せた。石鹸の生産部屋、薬草の処理部屋、消毒液の蒸留部屋。ルナが蒸留の作業をしていて、レインが近づくと猫が一匹足元に寄ってきた。 「動物に好かれるのか」レインがルナに言った。「……なつかれやすい」ルナが短く答えた。 「魔法の影響か?」「わからない。でも、昔から」 レインが、棚に並んだ薬草の瓶をひとつ手に取った。ラベ
フィオナからの最初の手紙が届いたのは、三人の現場責任者を決めてから五日後のことだった。 朝の市場から戻ったマリオが、馬革の封筒を持って駆け込んできた。 「王都から来てる。フィオナさんからだ」 エリナは薬草の仕分け作業をしていた手を止め、封筒を受け取った。 封蝋には、小さなクロスベルの家紋の代わりに、フィオナが即興で作ったらしい印——葉っぱの形をした押し型——が押してあった。 開けると、二枚の紙が出てきた。 一枚目は、ルシェムへの報告。簡潔な文体で、王都の空気の変化が箇条書きにまとめられていた。 二枚目は、全然違う文体だった。 エリナへ 王都は、思っていたより動きが早い。 あなたが国王陛下に謁見した話は、翌日には宮廷の半分に広まっていた。反応は大きく二つ。「面白い」か「危険だ」か。中間がほとんどいない。 クロヴェル派の動きを追っている。具体的な妨害はまだ出ていないが、水面下で根回しをしている気配がある。特に、商人ギルドの幹部数名と、魔法省の中堅どころが接触を繰り返しているのが気になる。 一方で、実務派の魔法師たちの間では「アッシュフォード商会の成果を無視するのは損だ」という声が少しずつ出始めている。レインの師匠が動いてくれているらしい。 あと、ダリウスが最近、宮廷でやや孤立しているという噂がある。父親との間で何かあったのかもしれない。確認中。 それと——あなたが「事務室が少し広く感じる」と書いてくれたの、正直言うと少し嬉しかった。毒舌参謀として言わせてもらうと、あなたはもう少し素直に寂しいと言える人間になった方がいいと思う。次の手紙には、数字だけじゃなくて、もっと変なことを書いてちょうだい。 ――フィオナ・クロスベル―― 追伸:レインへの手紙に『今日も雨が降った』と書いたでしょう。彼、それについて何か言ってた? エリナは手紙を読み終えて
王都から戻って一週間が経った。 ルシェムの作業場の改造は、ハンスとマリオを中心に順調に進んでいた。長屋の隣の空き家は、思っていたより造りがしっかりしていて、改造に必要な手間も予算も予定より少なくて済んだ。 石鹸の生産ラインを置く部屋、薬草の乾燥と仕分けをする部屋、そして消毒液の蒸留器を据え付ける部屋。三つの作業区画を、薄い板で仕切る形にした。換気のために高い位置に小窓を増設し、水回りも改修した。 完成までにあと十日ほど。 その十日の間に、エリナはもう一つ大事なことを進めなければならなかった。 現場責任者の候補を、決める。「候補は、こんな感じだ」 マリオが長屋の事務室で、紙を一枚広げた。 炭で大きく書かれた名前が、三つ。 マグダ・トーラン(ヴァロウ町) ジルカ・ベッセル(キーシュ町) オーリック・モア(トレネ町)「全員、ルシェムで石鹸を使ってくれてる人と繋がりがあって、向こうの町でもそれなりに顔が広い。字も読めるし、計算もまあ何とかなる」「人柄は?」「マグダは肝っ玉母ちゃん。子持ちで、ヴァロウの女衆の中心にいる」 マリオが指で名前を叩く。「ジルカは、男だけど物腰が柔らかい。キーシュの宿屋の次男で、家業と別に何かやりたがってる」「もう一人は?」「オーリックは、トレネで小さい雑貨屋を一人でやってる老人だ。年は六十過ぎ。ちょっと頑固」 エリナは三つの名前を、じっと見た。「三人とも、人物像が違うね」「だろ。お前が言ってた『町の事情によって合う合わないがある』ってやつだろ? だから幅を持たせて候補を出した」「いい判断」「俺の判断っていうか、ゴードンさんに意見もらった」「ちゃんと相談したのが、いい判断」「言い方」 マリオが頬を膨らませて、エリナは小さく笑った。「順番は?」「近い順だと、ヴァロウ、トレネ、キーシュ。馬車で順に回れば、三日でひと回りできる」「じゃあ、明日出発
ルシェムへ戻る道は、来た時とは少し違って見えた。 同じ街道、同じ宿場町、同じ景色。 なのに、馬車の窓から見える木々の色も、すれ違う旅人の顔も、どこか違って感じる。 変わったのは景色じゃなくて、自分の方なんだろうな。 エリナは、膝の上で軽く手を組みながら、そう思った。 王宮で何を語ったか。国王とどんな約束をしたか。フィオナを王都に残してきたこと。レインと交わした、ささやかな約束。 その一つ一つが、自分の中の重心を少しずつ動かしている気がした。「眠くないか?」 馬車の中で、向かいに座るゴードンが声をかけた。 今、馬車にいるのはエリナとゴードンの二人だ。レインは王都の郊外で別れ、学院へ戻った。フィオナは王都に残っている。「眠くはない」「考えごとですか」「整理してる」「無理はなさらず」 ゴードンは短く言って、また黙った。 この男の沈黙は心地よい。必要な言葉だけを置いて、あとはそっとしておいてくれる。 エリナは膝の上の革鞄を軽く撫でた。 中には、王宮からの正式な書状の写しと、フィオナとレインに書いた最初の手紙の下書きが入っている。 ルシェムに着いたら、すぐに動かないと。 頭の中で、もう次の段取りが回り始めていた。 ルシェムの町が見えてきたのは、二日目の夕方だった。 石壁とも呼べないような低い土塀。古びた門。市場の端に立つ木製の看板。王都の壮大な城壁を見た直後だと、すべてが妙に小さく、けれど不思議と懐かしく感じられる。 ハンスの息子のマリオが、町の入り口で待っていた。 馬車を見つけた瞬間、彼は手を大きく振った。「エリナーっ! ゴードンさんっ!」 声が、思いきり大きかった。 馬車が止まるのを待たず、マリオは横を走ってついてきた。「ただいま」 エリナが窓から声をかけると、マリオがニッと笑った。「おかえり。なんかすごいことになったって、本当か?」「誰から聞いたの」







